タラキクの軍艦巻
土方正志
原稿を引き受けたはいいのだが、書きあぐねた。おいしいものがたくさんある東北である。私のお気に入りはなんといってもマタギ村で食べた熊肉料理だが、いやいやあの村の蕎麦、宮城の餅尽くしの祝宴もスゴい、山菜採りや渓流釣りの〈味〉もあれば、市場にずらり並んだお正月の食材もある……と、それぞれの〈味〉の思い出に思案投げ首。だが、どれもぴんと来ない。なぜかといえば、やはり震災である。
震災前の「あの日あの味」を押しのけて、寒天の下、延々と並んで手にした炊き出しのお握りとか、やっと見つけた八百屋さんで軽トラックのライトを頼りに買い込んだトマトとか、一時避難した山形県の知人の家のなにげない朝ご飯などなど、物資不足に悩まされた日々の〈味〉の記憶があざやかに蘇る。あの日を境にさまざまな記憶が分断されたが、どうやら私にとっては味の記憶もそのひとつらしい。
これではいかんと、おいしい思い出がぎっしり詰まった宮城県石巻市へと出かけてみた。いわずと知れた漁業の町である。冒頭でいろいろと東北の味を挙げたが、実は大切な味が欠けている。あの日、壊滅した三陸沿岸の味である。かつての日々に、三陸の港々で食べた味を思い出すと胸塞がる。移転して営業再開した料理屋さんもある。なんとか破壊された建物を修理した料理屋さんもある。だが、更地になったまま、の歯の惨状のままの町並みを見れば、かつてを知る者にとっては、ああ、なんということか。
この町に、もう十年も通ったお寿司屋さんがある。石巻駅にほど近い寳来寿司。石巻で創業八十年。「いつの間にか石巻でいちばん古い寿司屋になりました」と、三代目の佐々木淳一さん。石巻駅近くのここは、営業再開の地である。北上川河口近くの繁華街にあった旧寳来寿司は、もうない。あの日、建物は津波に呑まれ、全壊。二階に避難した佐々木さんはなんとか難を逃れて一念発起、共同店舗への出店を経て、ここで営業を再開した。
最初は、ただ客として河口近くの寳来寿司に。やがて取材などに協力してもらうようになった。震災前年にウチで出した本に高成田享石巻支局長(当時)ら朝日新聞三陸沿岸支局の記者さんたちによる『話のさかな コラムで読む三陸魚歳時記』がある。東日本大震災の一年前、三陸の海の恵みがどれだけ豊かだったか、そのぎりぎりの証言となったが、この本に「おたのしみ券」を挟んだ。本文に登場する料理屋さんなどのサービス券である。寳来寿司にもご参加いただいた。
東京からの被災地取材や視察のみなさんを、ご案内はしてきた。だが、やはりご案内である。個人的に食べに来たのは三年目も終わろうとするこの日がはじめてだった。ランチタイムの営業が終わる寸前に飛び込んだ。営業時間が過ぎても、寿司を握り、寿司をつまみながらの話は尽きなかった。あの日の以前の寳来寿司、あの日の以前の石巻。味はいつもの通り最高である。だが、流されたあの空間はいまはない。それが残念ではありながら、けれどもお互いにここでいま、あの日々を乗り越えて、なんとか食べさせ、食べられるよろこびはどうだ。断絶を乗り越えて、なんたる〈味〉か。
天然マグロにカジキマグロにシャコにウニの軍艦巻と、次々と食べる。どれも極上である。旬はなにかと佐々木さんに問えば、白子の軍艦巻。ほんのり醬油を垂らしたあっさり湯通しのタラキクの軍艦巻である。あたたかいご飯と海苔にクリーミーなタラキクがからんで、絶品。視察などで被災地を訪れた海外からのお客さんにも大好評ではあるけれど「尿酸値が高いお客さまには、どうかな」とのこと。
舌鼓を打ちながら、思った。「おいしい」とはなにか。「おいしい」と人が感じるのは、場があって、場の空気があって、場の人がいて、だからこそなのではないか。味そのものもさることながら、場の「物語」もまた〈味〉なのではないか。塩竈の、石巻の、気仙沼の海を想った。悲しみをもたらした海はまた、幸ももたらす。断絶を越えて、被災地の「あの日あの味」はこれからきっとはじまる。
帰途、魚屋さんや料理屋さんが共同で営業を再開している「プロショップまるか」に立ち寄り――そういえば、佐々木正彦社長は、東海大学卒――海の幸をどっさり買い込んだ。おかげで我が家の食卓は三陸の海の幸尽くし。しばらく幸せな日々が続いた。
食べに来てほしい、三陸へ。 (『望星』2014年3月号掲載)
ひじかた・まさし●1962年北海道生まれ。東北学院大学卒業。2005年仙台市に出版社荒蝦夷(あらえみし)を設立。東日本大震災で被災、一時避難先で出版活動を再開。震災以後の活動で12年梓会出版文化賞新聞社学芸文化賞を受賞した。