エッセイ募集「私の思い出。あの日あの味」

三宮麻由子:「美味しい」が分かった日

「美味しい」が分かった日

三宮麻由子

anohi-bosei_logo 左手にもった急須にポットの湯を注ぎはじめた。温かな注ぎ音につれて重みが増してくる。少しずつ力を込めてその重みを支えていると、やがて縁に当てた左手の親指にまで湯気が伝わってくる。そこで注ぐのを止めて蓋を閉め、静かに待つ。

 耳を寄せてみると、急須から微かにシュウシュウと音が聞こえる。お茶の精が眠っていた茶葉を静かに起こしている声だろうか。急須の周りにも温かさが広がり、新茶の芳醇な薫りが満ちはじめる。

 四人とも、無言でその感触を確かめながら、さきほどから注意深くお湯を入れて暖めておいた茶器の具合を触ってみている。茶托の上に落ち着いた茶碗は、ようやく急須と同じくらいの温度になったようだった。

「はい、いいでしょう。では注ぎましょう」

 先生が静かに言う。私たちは、また無言で神経を指先に集中し、茶碗の縁の位置を指で確かめる。そして右手にもった急須の注ぎ口の位置を確認し、そっと傾ける。注ぎ口が茶碗の縁から反れないよう、淵に当たっている感触を右手で確かめる。

 そして、耳を澄ます。
コロロロロ クククク キキリリリリ
 爽やかな新茶の薫りが辺りに広がり、茶碗が淹れたての新茶によって満たされていく音だ。私はその音に集中し、キリリリリと聞こえたところで急須を水平に戻す。どうやら、茶碗の八分目まで注ぐことに成功したようだった。

 それは、盲学校の家庭科の授業であった。小学三年生か四年生だったろうか。この日私たちは、授業としては初めて「熱いお湯」を扱ったのだった。

 四歳になるころに光とさよならし、”SCENELESS”(私の造語で全盲者の意味)となった私には、動作こそ何の変化もなかったけれど、食べることも飲むことも、見えていたころとはまったく違ってしまった。食事をするときには、これから食べるものの正体は口に入るまで確かめられなくなった。飲み物を飲むときには、重みやそれまで飲んだ量の記憶を頼りに、いま器にどのくらい入っているのかを推測し、注意深く器を傾けることになった。いまだに、マグロの刺身と間違えて、箸触りの似た山葵を一塊食べてしまい、感涙にむせぶといったアクシデントは後を絶たない。勢い、子供のころの私は、食事を美味しく食べるなどという心の余裕とは無縁だった。

 そんな苦しい日々が経験と体の成長によって少しずつ終わりに近づきはじめていたころ、あの家庭科の授業があったのだった。

「きょうは、お茶を淹れましょう。まずは自分で淹れ、それからお互いにご馳走し合いましょう」

 私は嬉しくなった。目の手術のため幼稚園前に一年ほど入院した影響で食べ物をほとんど受け付けなかった私は、栄養のためにフルーツジュースを中心に飲んでいた。だからお茶は両親が飲む「大人の飲み物」のように思っていた。

 そのお茶を、いま自分で淹れて飲もうというのである。家庭科の授業でお茶が淹れられるようにもなれば、もう泣き虫の小さい子供ではなく、一人の「女の子」になれるのだ。食についてはいつも受身だった私が、この日は一人の人間として口に入れるものを作るのだ。私はいつものおしゃべりもせず、真剣に先生の話に聞き入り、手順を頭に刻み込んだのだった。

 自分で淹れた新茶は、ほどよく熱く、優しい甘味を湛えていた。教わったとおりに左手で茶碗の底を支え、右手を沿えて、両親のようにススッと音を立てて飲んでみた。大人と同じ音がした。

 次は、お互いに「ご馳走」し合う番である。

「お茶を淹れるときは、心を込めます。お出しする方のことを思い、その方に愛情をもって淹れましょう」

 私たちは、再び神経を集中して茶器を暖め、急須にお湯を注ぎ、お茶を淹れた。二度目は、少し簡単に思えた。私が振舞う相手は、よく一緒に探検ごっこをする悪戯友達だった。彼女に美味しいお茶を飲んでもらおう。彼女への愛情ってどんな気持ちかよく分からないけど……。二人とも可笑しいくらい真剣にお茶を淹れている。

「はい、どうぞ」

 二人が同時に言いながら、テーブル越しに茶托を交換した。私は、彼女の「愛情」を大人の音で飲んだ。甘い。そしてほろ苦い。私のより、少し濃いような気がした。「美味しい」という感覚が、初めて深く心に入ってきたような気がした。

「麻由子ちゃんのお茶、甘くて美味しいね」

 彼女が言った。そして授業のあと、あの神妙な雰囲気を再現しては笑い転げたのだった。

 あれ以来、私は忙殺されているときにあえて時間を作り、思いきり美味しい飲み物を静かに味わうのが習慣になった。そして人に「愛情」を示したいときにも、飲み物を贈るようになったのである。  (『望星』2008年11月号掲載)

さんのみや・まゆこ●東京都生まれ。エッセイスト。外資系通信社で報道翻訳に携わる一方、エッセイや絵本の執筆、講演、ラジオ・テレビ出演など活動中。著書に『感じて歩く』など、絵本に『おいしいおと』ほか。

お気軽にお問い合わせください TEL 03-3227-3700 東海教育研究所「あの日あの味」事務局(担当:寺田)

募集の概略

規定 作品は1800字以内
賞  最優秀賞1編(10万円)
   優秀賞3編(3万円)
   佳作10編(5千円)
締切 2018年1月31日(消印)
発表 『望星』2018年7月号誌上
選考委員 太田治子(委員長)
     島村菜津
     水島久光
     三輪太郎
主催 株式会社 東海教育研究所
後援 株式会社 紀伊國屋書店
   株式会社 新宿高野
   株式会社 中村屋

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