エッセイ募集「私の思い出。あの日あの味」

下山静香:野性のモルシージャ

野性のモルシージャ

下山静香

 

anohi-bosei_logo 一九九九年の春。最小限の衣類と楽譜を入れた小さいスーツケースとともに、スペインはマドリードに降り立った。一泊目のホテルだけは出発前に予約しておいたが、その後の予定は白紙。これから留学生活を始めようというのに、なんとも無計画である。しかし、頼るつてはなく、ネット環境もまだまだ整っていない頃……とにかく行けばなんとかなる、と信じて飛び込むしかなかったのだ。

 一夜明け、さっそく宿を探す。賑やかなプエルタ・デル・ソル界隈で三軒目に訪ねたオスタルが気に入って、まずはそこを拠点にしようと決めた。
 次なるミッションは部屋探しである。新聞で物件をチェックしては家主に電話をかけるものの、「ピアノを弾くのですが」と言った途端に切られ、外国人とわかると切られ、下見までこぎつけても監獄のような部屋に通されて逃げ帰る……。そんなことを繰り返しながら、午前中はスペイン語学校に通い、午後は図書館のブースでピアノを練習する生活を送っていた。

 図書館のピアノは、無料ということもあり多くの学生が使っていたが、午後一時過ぎから五時までの間は空きが出ることが多かった。二時頃、もしくはもっと遅く始まる長い昼食の前後だからである。スペイン人にとって、昼食は特に大切なイベントだ。一日の後半を元気に効率よく過ごすために、エネルギーを充塡し、休息をとる。昼食を抜いてまで勉強や仕事をする人がいたとしたら、よっぽどの変わり者ではなかろうか。――というわけで私は、皆と入れ替わりに図書館に入るため、早めに昼食を済ませることにした。

 ここで大いに活用したのが、スペインならではの「バル」。クラスを終えると、一人でバルに寄ってカウンターに座り、グラスビールを片手にタパスをつまんで一息つくのが日課となった。タパスは、小皿料理とはいえ結構量が多いし、もれなくパンがついてくるので、二種類ほど頼めば十分だ。カウンターの向こうにいるおやじさんと顔見知りになると、頼んでいないパエリャをちょいと盛ってくれたり、お客の誰かがワインを一杯おごってくれたり。家族や同僚と会話を楽しみながら、たっぷり時間をかけるスペイン式の食事はできなかったけれど、孤軍奮闘していた私にとって、バルは、美味しいものと温かいひとが待っていてくれる、オアシスのような場所だった。

 季節はめぐり、初めての冬がやって来た。ある寒い日、マジョール広場を横切って、ちょっと入ったところにあるバルに足が向いた。イカリングのフライが人気のこの店はいつも賑わっていて、お店のお兄さんに注文を告げるのも至難の業なのだが、その活気で、縮こまった体を温めたくなったのかもしれない。

 メニューを眺めていると、「モルシージャ」とあるのが目に入った。「今日はこれに挑戦してみよう」そう思って、モルシージャのボカディージョを注文した。できたよ、と渡されたパンのあいだにこれでもかと挟まれていたのは、どす黒い輪切りの物体。豚の血入りの腸詰である。口にしてみると、コクがあって、くせになりそうな旨さだ。中には、米や松の実なんかも詰まっている。そのうち、氷のように冷えていた手に血がめぐり、足の先までぽかぽかとしてきた。さらに、ふつふつと湧きあがってくる力……。野性が目覚める感覚とでもいおうか、何と強烈な食のパワーだろう。「これがスペインなんだ!」と妙に腑に落ちた私は、とても嬉しくなって、足取り軽くピアノの練習に向かったのだった。
 それからというもの、寒い日はこの店でモルシージャ、が定番となった。ぽかぽか、ふつふつを味わったらチャージ完了、いざ出陣だ。モルシージャを食べると気分はいっぱしのマドリっ子、自分がこの街で確かに生活していると実感することができた。そしてこの日々を大事に、悔いなく生きよう、とも。

 その後バルセロナ、サラゴサと居を移し、四年経って東京に戻ってきたら、質の高いスペインバルやレストランが増えていて、モルシージャを出すお店もあるのには驚いた。日本人の繊細な舌に合うように絶妙なバランスで調理されたモルシージャは、確かに美味しいけれど、私には優し過ぎるようだ。でも、マドリードで食べたあのモルシージャの強さは、柔和な日本の風土とは調和しないだろう、とも思う。

 だから、私の郷愁の味は、いつも海の向こうだ。自分に喝を入れたくなったときは、マドリードでモルシージャを食べてがんばっていたあの頃を、せめて思い出してみるのである。  (『望星』2012年8月号掲載)

しもやま・しずか●ピアニスト。桐朋学園大学卒業。同室内楽研究科修了。1999年文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペインに渡る。03年帰国。各地での演奏活動のほか、執筆・翻訳・朗読・舞踊などマルチに活躍する。最新CDは『Chopiniana ショパニアーナ』(fontec)

お気軽にお問い合わせください TEL 03-3227-3700 東海教育研究所「あの日あの味」事務局(担当:寺田)

募集の概略

規定 作品は1800字以内
賞  最優秀賞1編(10万円)
   優秀賞3編(3万円)
   佳作10編(5千円)
締切 2018年1月31日(消印)
発表 『望星』2018年7月号誌上
選考委員 太田治子(委員長)
     島村菜津
     水島久光
     三輪太郎
主催 株式会社 東海教育研究所
後援 株式会社 紀伊國屋書店
   株式会社 新宿高野
   株式会社 中村屋

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