揚げパンと米軍基地
隅田 靖
私が育った神奈川県相模原市には米軍病院、正式には米陸軍医療センターがあった。日本の陸軍病院が、敗戦後米軍に接収されたものだ。小学生当時、ベトナム戦争の真最中で、学校上空をヘリコプターが三十分毎くらいに米軍病院を目指して飛んできた。耳をつんざくその轟音で授業が中断する事も度々であった。
その頃の私の一番のお楽しみが、給食で出た「揚げパン」であった。敗戦国の子ども達の栄養事情を改善するために給食のメニューに登場したものらしい。
普段、給食の主食は「コッペパン」か「食パン」であったが、一週間に一度ぐらい「揚げパン」の日があった。午前の授業が終わり、昼になると当番が給食を運んでくる。先頭はいつもパンだった。大きな四角いアルミの箱を二人で担いで教室に入ってくると、砂糖と油の入り混じった甘い香りが教室中にプーンとただよう。その度に教室には期待感があふれ、私は「今日は揚げパンだ!」と小躍りしたくなった。
外側はきつね色にこんがりと揚がりやや固く、銀色に輝く砂糖をまぶしてある。噛みしめると中はフワッとしていてやわらかく、それは食事というよりは何かの褒美のようであり、あっという間に食べてしまった。がそれは至福の時であった。
当時食べるに困るということはさすがになかったが、洋風な菓子はちょっとした贅沢な食べ物で、特別な日に食べるものであった。
なぜ米軍病院には大型ヘリコプターが絶え間なく行き来しているのか? 轟音とともにその憶測は広がった。
近所に、父親が米軍病院に勤務し、アメリカンスクールに通うKという年長の友だちがいた。ある日誘われて、自転車で四十五分ぐらい走り、未踏の雑木林に出かけた。有刺鉄線を潜ると長い塀があった。よじ登ると、そこは射撃場のような場所であった。Kは私に「薬莢取ってこい!」と命じた。あまり使われていないのか、辺りはシーンと静まりかえっていた。私は怖れながらも飛び降り空薬莢をひとつ拾った。そこは「米軍座間小銃射撃場」という場所だった。
当時TV放映されていたドラマ「コンバット」や、大流行していたフィギュア「GIジョー」の世界に迷い込んだようなスリルに夢中であった。
またKに誘われて基地のイベントに行った。バンドの演奏やゲームがありバザーや食べ物の屋台が出ていた。今でいうフレンドシップデーのようなものだったのだろうか?
印象的だったのはやはり食べ物で、大きなソーセージ、バーベキュー、ハンバーガーなど初めて見るものばかりだった。Kの父親がごちそうしてくれた。菓子のコーナーもポップコーン、アイスクリームやパイなど好きなだけ食べた。油で揚げた細長いパンに白い砂糖をまぶしたドーナツ、「揚げパン」もあった。私は釘付けになった。生地がモチッとしているのは給食のそれと同じだが、卵の味がしてもっと甘く、また別のおいしいものだった。
米国人の為の店や英語の標識があちこちにあり、当時の相模原においては、戦争は見知らぬ国の話、ではなかったと思う。
ヘリコプターは病院に多くの負傷者を運んだのだろう。遺体を運びきれいにしてから本国に送還することもあったのだろう。米国はベトナム戦争で六万人弱の戦死者を出している。
米軍病院は一九八一年に返還され、跡地には、高校、省庁の研修センター、商業施設、団地が建ち、往時を偲ばせるものは何も残っていない。
小学校五年の頃だったか、突然に「揚げパン」はなくなった。給食リクエスト用紙に何度も「揚げパン」と書いたが、再び献立に上がることはなかった。いつの間にか脱脂粉乳も瓶詰めの牛乳に変わった。中学校も給食だったのでリクエストし続けたが、だめだった。すでに栄養事情も落ち着き、子どもにもカロリーが高すぎるとの判断だったのだろう。
大人になってから色々な街を訪ねる度、古びたパン屋に探しては買い求めるが、あの「揚げパン」の味に会うことはなかった。
はたして三年前に、韓国のソウルに行った時のこと。地下鉄の東大門駅近くに持ち帰りのおやつを売る店があり、何気なく入ると色々な揚げパンが堆(うずたか)く積まれていた。カレーパン、野菜サンドのパン、ねじりパンのなかに、砂糖のついたパンがあり買ってみた。道端で口に入れると意外にもあの「揚げパン」の味であった。 (『望星』2012年7月号掲載)
すみだ・やすし●1959年東京都生まれ。映画監督。澤井信一郎監督に師事。監督作に『ワルボロ』(2007年)がある。