私たちにおすそわけしてください
三島由紀夫の最後の小説『天人五衰』に、雪の日に母がホット・ケーキをつくってくれるという話が出てきます。
今にして懐かしいのは、〈炬燵にあたたまりながら喰べたその蜜とバターが融け込んだ美味である〉、と。
初読からすでに三十年以上、年齢を重ねれば重ねるほど、私にはこの挿話がいとおしく思われてなりません。意識によって整理整頓される以前の生身の声が、かすかに聴こえるような気がするからです。ホット・ケーキは創作でなく、どうやら作家自身の体験であったらしいことが、研究者によって明らかにされています。
私は四十代で子育てをはじめ、朝夕の食事をつくる側にまわりました。子にねだられるとホット・ケーキもつくります。あの香ばしい匂いを嗅ぐたび、三島の一挿話が想起され、私自身の記憶と混じりあい、香ばしさをさらに引き立ててくれます。
子育てをして気づいたのは、人は生きる合間に食べているのでなく、食べる合間に生きているという単純簡明な事実でした。食べることが、人生をまわしていく。食べることが人生の記憶の深部とつながり、死ぬまで地下水脈となって心と身体の奥を流れていく。ぜひ、あなたの地下水脈を汲み上げて、一椀、私たちにおすそわけしてください。地下水脈と地下水脈とがつながりあうと、地上の風景が一変するかもしれません。
選考委員 三輪太郎
小説家・文芸批評家。東海大学文学部文芸創作学科准教授。著書に『あなたの正しさと、ぼくのセツナさ』『大黒島』など