エッセイ募集「私の思い出。あの日あの味」

太田治子

すると私は、幸せな気持になります

太田先生引き 心の中に大切にしまっていたなつかしい思い出を文章にすることは、決してむつかしいことではないように思います。なつかしければなつかしいだけ、文章はすらすらと流れていくことでしょう。たくさんの思い出の中から浮かび上がってくる、あの日のことも、あの味も、いざ書き出すと幸福な気持に浸ることができます。一人一人の思い出は、そのどれもがきらきらとお星さまのように輝いたものとなっていくのです。

 私が初めてコーヒーを口にしたのは、小学校一年生の時でした。さる出版社の応接間のソファに、母と腰かけていました。社長のFさんは、空の上の父の親友でした。とても背の高いFさんは、眼鏡の奥からじっと私のことを、みつめておいででした。まもなくコーヒーが運ばれてきて、私はそれとは知らずに一口、口に入れました。あまりの苦さに、一瞬目の前が真っ暗になり、涙がでてきました。

 「これは、いかん。これは、子どもの飲みものではない」。Fさんは、大声を上げました。その時のコーヒーの苦さとFさんの心配そうな表情が、忘れられません。今でもコーヒーを口にした時、ふとFさんのあの時の顔を思い出すことがあります。すると私は、幸せな気持になります。Fさんとこの世であったことのない父の顔が重なって浮かんでくるのです。小説家の父も、きっとあのように心配してくれたのに違いない。そう思われてきて、にっこりします。私の大切な、あの日あの味です。

選考委員長 太田治子


作家。著書に『明るい方へ』『時こそ今は』『石の花 林芙美子の真実』など

お気軽にお問い合わせください TEL 03-3227-3700 東海教育研究所「あの日あの味」事務局(担当:寺田)

募集の概略

規定 作品は1800字以内
賞  最優秀賞1編(10万円)
   優秀賞3編(3万円)
   佳作10編(5千円)
締切 8月31日(消印)
発表 『望星』2016年2月号誌上
選考委員 太田治子(委員長)
     三輪太郎/島村菜津
     『望星』編集部
主催 株式会社 東海教育研究所
後援 株式会社紀伊國屋書店
   株式会社タカノフルーツパーラー

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