すると私は、幸せな気持になります
心の中に大切にしまっていたなつかしい思い出を文章にすることは、決してむつかしいことではないように思います。なつかしければなつかしいだけ、文章はすらすらと流れていくことでしょう。たくさんの思い出の中から浮かび上がってくる、あの日のことも、あの味も、いざ書き出すと幸福な気持に浸ることができます。一人一人の思い出は、そのどれもがきらきらとお星さまのように輝いたものとなっていくのです。
私が初めてコーヒーを口にしたのは、小学校一年生の時でした。さる出版社の応接間のソファに、母と腰かけていました。社長のFさんは、空の上の父の親友でした。とても背の高いFさんは、眼鏡の奥からじっと私のことを、みつめておいででした。まもなくコーヒーが運ばれてきて、私はそれとは知らずに一口、口に入れました。あまりの苦さに、一瞬目の前が真っ暗になり、涙がでてきました。
「これは、いかん。これは、子どもの飲みものではない」。Fさんは、大声を上げました。その時のコーヒーの苦さとFさんの心配そうな表情が、忘れられません。今でもコーヒーを口にした時、ふとFさんのあの時の顔を思い出すことがあります。すると私は、幸せな気持になります。Fさんとこの世であったことのない父の顔が重なって浮かんでくるのです。小説家の父も、きっとあのように心配してくれたのに違いない。そう思われてきて、にっこりします。私の大切な、あの日あの味です。
選考委員長 太田治子
作家。著書に『明るい方へ』『時こそ今は』『石の花 林芙美子の真実』など